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風土
瀬戸内海は四方を陸で囲まれ、山からの豊かな栄養に恵まれていると共に、内海の地形は大きな干満差を生じ島々の間を通る潮流は早く、身の引き締まった魚を育みます。
竹原は瀬戸内海の中でも特に干満差が大きく、また島が多いという、特徴的な環境に包まれています。
この様な環境で育った魚介は他にないほどの深い味わいを備えます。そんな海の幸をおいしく味わうのに必要なのが「うま味」です。「うま味」は食の持つ味わいを引き出し、それを相乗効果で何倍にもします。
竹原の風土が生んだ魚介のおいしさを最大限高めたい。食の邪魔をしないのではなく「食をおいしくする」。私たちが「うま味」豊かに日本酒を醸す理由です。
うま味を引き出す水
酒蔵の一角、地下126mから清浄な水が湧き出ています。これが竹鶴酒造の酒造りに使われている水です。日本酒の約80%が水であり、その性質はお酒の品質に大きく影響します。この水は日本酒を濃醇な味わいにする塩化物イオンが多く含まれるのが特徴です。
竹鶴の日本酒に驚くほど豊かな「うま味」が備わっているのもこの水あってのこと。私たちの酒造りに、最適の水があるのです。
この水にはナトリウムイオンも塩化物イオンと同程度含まれています。竹鶴酒造社屋の前は、かつて海でした。つまり、これらは地下を通ってきた海水が由来と考えられます。この水もまた、風土に育まれたものと言えるでしょう。
歴史
― 今も生きる塩づくりの精神
竹原の酒造りの歴史は江戸時代初期までたどることができますが、広島藩の様々な規制はその発展を妨げます。
明治維新後これらの規制が廃止されると、明治10年(1877年)の西南戦争の際、港湾業でも栄えていた竹原は九州へ日本酒の販路を開こうとしますが、同じく進出していた先進地・上方との品質の差を思い知ることとなります。
「時代の要求に応じる進歩した清酒を造るには、酒造業者の一致団結を図らなければならない」
明治21年(1888年)、竹原の酒造家たちは隣の安芸津町と共に技術の向上を目的として広島県初の酒造組合を結成し、実に20年以上かけこの問題を乗り越えます。現在の広島の日本酒造りの基礎は、竹原と安芸津を中心とするここ芸南地方で築かれたのです。竹鶴酒造の当時の経営者も中核として酒造組合を支えました。
先進地から最新の技術を導入するだけでなく旧弊に囚われず独自の工夫も加え、竹原は「灘以西第一の酒郷」と称されるほど日本酒造りが盛んとなりました。その独自の工夫が当時の流行の先を行っていたのでした。
私たちは酸味に焦点を当てた日本酒や「お燗するにごり酒」等、これまでにない試みに挑戦してきました。これからも竹原の伝統を受け継ぎ、日本酒に新たな魅力と価値を加えるため歩み続けます。
ところで先進地から遅れていたとはいえ、それに甘んじる選択肢もあったはずです。竹原の酒造家たちはどうして先進地に追いつき、追い抜こうとしたのでしょうか。
それは竹原の酒造家は製塩との兼業が多く、製塩業で他の多くの産地との競争を通じ、品質の重要性を痛感していたからだと考えられます。広島県で最初という迅速に酒造組合が結成されたのも、品質に対する意識の共有が既になされていたからでしょう。
竹原の製塩業は残念ながら衰退してしまいましたが、その精神は今でも酒造りに生きているのです。
魚飯
竹原は寛文12年(1672年)河村瑞賢による西廻り航路開発により北前船の寄港地となり、北海道から昆布がもたらされるようになりました。製塩業で栄えた竹原の商人の間で生まれた郷土食があります。
魚飯(ぎょはん)
うま味豊かな瀬戸内海の魚介と北海道の昆布が、歴史の中で出会い生まれた料理です。手間ひまがかかるため製塩業の衰退と共に受け継ぐのは現在、製塩業を前身とする竹鶴酒造だけとなってしまいましたが、これを大切に守ってきたのも風土と歴史が育んだ「うま味」が 日本酒「竹鶴」の根底だからなのです。
※魚飯は従来竹鶴酒造の関係者しか味わうことができませんでしたが、2021年3月より近隣のNIPPONIA HOTEL 竹原 製塩町様にてお召し上がり頂けるようになりました。
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